薄い味付けの記憶を財産とする。その1
おはようございます!
今日も快晴でござりまする。ブログを書き続けるためにはいいリズムから♬
ゴルフのスウィングみたいにチャー♪シュー♪メーンで軽快に飛ばして行きたいと思います。
さて、今日は
薄い味付けの記憶について書きたいと思います。
社会人になって独り暮らしをしだしたころ。残業残業で外食漬けの日々を過ごしていたある日、ふと「おふくろの味」が懐かしくなった経験があります。おそらく皆さんも一度はあると思います。
おふくろの味っていうのは大抵、うす味です。今ならわかるのですが、はじめて食べるおふくろの味は離乳食なわけです。そこから少しづつ少しづつ味を濃くしていくので比較的、うす味のキオクが残っているんだと思います。これは家庭差があるとは思いますが。。
薄味なのにまた食べたいと思うってどういう事でしょう?
薄味のほかに何か違うことをも記憶しているからだと考えました。
それは、
お母さんと家族といっしょに食べた 楽しい食卓のキオク じゃないでしょうか?
濃い味は何も言わなくても食べる一方、うす味を食べさせるのには工夫を凝らしてくれたのかもしれません。一緒にニコニコ笑って楽しい雰囲気で食べさせてくれたのかもしれません。だからこそ楽しい食卓だったのかもしれません。
豪華な食事ではなかったけど、いつも楽しい食卓だったな
つまり食事じたいが美味しいというよりは、家でお母さんと食べた食卓が楽しかったという記憶が、またおふくろの味を食べたいなと言わせるのではないでしょうか?
いつも3人で一緒に頂きます♪をして、ほっぺについたご飯粒をとってあげて、催促してきた汚れた手を拭いてあげて、自分のご飯をくれようと妻に伸ばした手をひょいっと自分の口にもっていき(・∀・)ニヤッと不敵な笑みを浮かべるのを見て妻と爆笑したり。。
慎ましやかだけど、あったかい、楽しい食卓のキオクを財産に残してやりたいのです。
いつか社会の荒波にのまれ自分を見失った時、うす味では満足する心を失いかけた時、つまり心を物で満たそうとなってしまったとき、おふくろの味が灯台のように帰る場所を照らしていられるように。息子の心に灯台をたててやりたいのです。
本日も最後までお読みいただきましてありがとうございました。